私が聞いた戦争のエピソード
父の戦争体験
現在(平成13年1月1日),父は他界しており,また,自分の話はほとんどしなかったので,父の戦争体験は不明な点が多いです。戦前か戦中か,はっきりしませんが,日本飛行機という軍需工場で働きながら,夜学に通っていたもようです。父の友人が,年金を貰えると教えてくれたので,母も始めて知りました。ちなみに,父の学歴は中学中退なのですが,私が高校の時,父親の学歴を書類に書く欄があり,中退ではかっこ悪いとの母の助言もあり,旧制中学卒業と,学歴詐称した覚えがあります。すみません。
徴兵繰り上げで,19才の時,海軍に入隊したもようです。実は,それ以前に,海軍兵学校に志願したけれど,身長が足りなくて,学科まで受けられなかったもようです。それでも,徴兵検査は甲種合格だったそうで,そのことは自慢していたのを覚えています。海軍入隊が決まると,横須賀の海兵団に行ったそうです。横須賀線で衣笠まで行って,そこから武まで歩いたそうです。その後,岩手に配属が決まり,汽車で遠路はるばる向かったそうです。ちなみに,父は海軍にいましたが,船は1隻も見たことがなかったそうです。その当時,多くは沈んでいましたが,横須賀にはまだ,「長門」が健在のはずですが,父のような一兵卒が見る機会はなかったようです。もし見ていたら,当時,迷彩塗装がほどこしてあったか,聞きたいものです。岩手では,松の根っこを掘っていたようです。航空機の燃料となる,いわゆる「松根油」を作る部隊だったようです。奇しくも,岩手は祖父の田舎で,父の兄弟たちが疎開しており,面会に行ったそうですが,父は下痢してげっそり痩せていたもようです。岩手にも空襲が来たそうで,林に隠れていても,爆弾の炸裂は恐かったそうです。
父が海軍に入隊する前,横浜に,B−29が夜間爆撃に来たようです。高射砲が狂ったように打ち上げるけれど,全く命中しなかったそうです。しかし,そのうち,曳光弾が闇夜に光って見えたそうです。果敢にも,夜間戦闘機が迎撃に上がっていたのです。そしてついに1機を撃墜し,その機体は上大岡のほうに落ちた,とのことでした。ちなみに,実家のあった横浜磯子には,近くに水上機の部隊があり,「げた履き」(フロート付きの飛行機で機種不明)で,無謀にも,邀撃戦をしていたようです。親戚にパイロットが2〜3人,下宿していたそうですが,出撃するたびに1人減り,あっという間にいなくなってしまったとのことです。父は,その時の戦闘機が気になっていたようで,プラモデルが普及した平和な時代に,戦史に詳しい叔父に,B−29を撃墜した夜間戦闘機の機種を,聞いていました。「月光」か「屠龍」との解答でした。父は,海軍にはあまりいい思い出はなかったようですが,軍艦が好きで,絵を書いたり,プラモデルを作ったりしておりました。私のお年玉を有効利用して,日本ホビー1/250「大和」をかついで帰って来たときは,びっくりしました。その後,世界最大の戦艦「大和」の模型が,日本模型から1/200で発売されると,早速購入し,親子で作ったものです。とにかく,大きな模型がすきでしたので,晩年,B−29のでっかいのを作ってくれ,とリクエストされ,モノグラム1/48を購入しながら,未だに作っていない私は,親不孝ものです。きっと,横浜の夜間邀撃戦が記憶に残っていたのでしょう。ニチモ1/48「屠龍」,タミヤ1/48「月光」(まだ出てない?)と,揃えて仏壇の前に,供えたいと思います。
母の戦争体験
母は女学校(現在の中学1年から高校1年に相当)に,入学したのが,昭和16年なので,その年の12月には,大東亜戦争(母は決して太平洋戦争とは言いません)が勃発しています。ちなみに,当時の世界地図は,南樺太と満州が赤く塗られていて,日本だったとのことです。私が海上自衛隊のビデオを見ていたとき,手旗信号の訓練シーンが映し出されると,母が,「少しはやった」と,言いました。体育の授業にあったそうです。昭和19年8月に,女学校に隣接する,日東紡績へ学徒動員(私が推測するに,第3期女子挺身隊の記憶違い?)に,行ったそうです。そこには,第1工場から,第3工場まであり,母は第3工場で,軍艦の蒸気パイプに巻く断熱材のようなもの(正式な名称は覚えていないそうです)を作る,仕事をしていたそうです。机に6人で向かい合って,作業をしており,引っ張り過ぎて繊維が切れると,一生懸命にぬったそうです。繊維がなくなると,庭に「ロック」を取りに行く,といっていたそうなので,石綿の石から暗号?をつけていたのかも知れません。素手で縫うため,つめの間に尖った繊維が相当入り込み,夜になると必死に抜いたそうです。ちなみに,第1工場は落下傘をつくっており,素材は絹の羽二重だったそうです。第2工場はセーラー服をつくっていたそうです。夜寝るふとんは,その落下傘の生地でできていたそうで,とても滑りやすかったそうです。
空襲が北日本まで来るようになった,昭和20年4月のある日,昼休みに田んぼで,農作業の手伝いをしていると,警戒警報が解除になった途端,15機位の銀色に輝く4発の飛行機の編隊(5機小隊がV字型で3隊)が,やって来たそうです。日本にもあんなにすばらしい飛行機があったのか,と感動していると,何か落としたそうです。本宮の郡是産業を狙ったものだったそうです。低空飛行で,星のマークが,はっきり見えたそうです。その後,艦載機(正確には艦上機?)が訪れるようになり,郡山大空襲のとき,母は卒業して田んぼに寝そべって,空中戦を見物していたようです。高射砲は,全く当たらなかったようですが,飛行機がたくさん落ちるのが見えたそうです。落ちた,落ちたと,喜んでいたら,それがほとんど日本の飛行機だったようです。このとき,母の通っていた女学校の校庭に,爆弾が命中したそうです。巨大な穴があき,校舎の窓ガラスは全部,吹き飛んだそうです。その時,母の妹が学校にいて,大変な恐怖を味わったそうです。汽車が止まって,おぶいひもと,おにぎりをもって迎えに行ったら,途中であうことが出来たそうです。
昭和20年8月14日,ご存じのように日本はポツダム宣言を受諾して,敗戦となるわけですが,母は,日本が戦争に負ける,などということは考えもしなかったそうです。また,8月15日の天皇陛下の玉音放送は,雑音が多くてさっぱりわからなかったけれど,何か負けたらしいことは,感じたそうです。
BGMは,0800に軍艦旗掲揚のときに
吹奏される,らっぱ版「君が代」を,変ホ
長調でカノン風にして,R.WAGNERの楽劇
「ラインの黄金」前奏曲風にしてみました.
意外と,よくマッチしているとおもいません
か? 原曲のオリジナル性を著しく損ねて
いるとはおもいませんが,著作権法上問
題があれば,削除いたします.(+_+)